その119
ミヤンマー便り (13)
アウン・サン・スー・チー女史について

 欧米諸国から経済制裁が行われているミャンマーの経済の実態は大変厳しい。我々が訪問した各都市は静かで平穏で危険は全くなかった。ミャンマーを説明するとき、アウン・サン・スー・チー女史を抜きにしては片手落ちとなる。経済制裁の原因となったスー・チー女史について、新聞などで報じられた内容と現地で聞いた状況を整理しておく。我々の入手した情報も一方的で偏った情報かもしれないが、ジャーナリストの伝えるところも偏っていることもあるので判断する参考としていただきたい。

2003年5月末の新聞報道。

「スー・チー女史がミャンマーの北部の州で地方遊説をしていた時、一行を路上に待ちかまえていた群衆が竹槍や棍棒をもって襲った。ミャンマー軍事政権は、スー・チー女史の身の安全を守るために彼女たちを保護し、その上で事実上拘束状態になっている」

襲われた事実は事実として、この背景に諸説がある。彼女たちを襲った暴徒が、彼女に本当に反発している群衆という説と軍事政権に雇われた群衆(民兵)という説である。どちらが正しいのかわからない。これ以降軍事政権は国民民主連盟NDL(彼女の属する政党)を閉鎖すると共に、反政府運動を行う全国の大学も閉鎖した。雇った武装した群衆に襲わせておいて「危険なので保護する」という名目で拘束することは、ミャンマー軍事政権にとって簡単にできることである。危険からの保護という理由は、対外的に説得性もあり可能性も高いといわれる。

我々訪問中は、すべての期間中、周辺に不穏当なことは一切感じなかったが、案内のガイドから「誤解される恐れがあるのでアウン・サン・スー・チーと言う言葉も避ける」ように注意されている。一般のミャンマー国民には相当のプレッシャーをかけていると見てよいだろう。

歴史をもう少しさかのぼれば、ミャンマーでは1962年のクーデター以来、軍事政権が続いている。1970年代から民主化が叫ばれたが、一時、軍事政権に反対する群衆が決起したが鎮圧されている。軍事政権になる前には、日本からの援助も行われて、筆者の所属していた会社の同僚も当時のビルマのラングーン(現ヤンゴン)に長期で滞在し、放送システムに関する技術移転を支援していた。民主化の動きで1990年には国勢選挙も行われたが、軍事政権は圧勝した国民民主連盟への政権引き渡しをやめ、スー・チー女史を自宅軟禁状態にした。ここから一転して情勢が大きく変わったのである。

 スー・チー女史について語るとき、ビルマの歴史を更にさかのぼらなければならない。英国が最初にビルマ進出を企てたのは1612年のことである。その後三度の戦争を経てビルマは英国の殖民地となった。植民地としての時代は1886年から1948年まで続いた。この間にビルマの英国からの独立運動が続けられた。当時ビルマの独立を目指す志士のグループの1人として働き、建国の父ともいわれているのがアウン・サン将軍である。アウン・サン将軍は1940年代国民的な英雄であった。しかし、彼は1948年に独立する前の年、1947年政敵である、ウー・ソウによって暗殺されてしまった。スー・チー女史は、この国民的英雄アウン・サン将軍の娘である。

スー・チー女史は、1945年の生まれでアウン・サン将軍が暗殺されたときは2歳前後であった。母親が駐インド大使であったので、ラングーン(現ヤンゴン)のミッションスクールの後、インドのデリーの高校、大学へ進み、その後英国のオックスフォード大学に入る。1964年のことである。その後、米国のニューヨーク大学大学院へ留学し、国連本部の職員となった。1972年にオックスフォード大学の学友と結婚した。結婚後、国連職員を辞め、オックスフォード大学で勉強を再開した。さらにロンドン大学で博士課程へ進み、東洋アフリカを研究した。このとき日本語も学んだそうである。1985年には、日本の国際交流基金の招きで京都大学東南アジア研究センターに客員教授に招かれている。

1988年一時ビルマに戻ったが、このとき学生を中心とする反政府運動や民主化運動が盛んになりかけており、国民民主同盟(NDL)の書記長となった。その後の活動は、1991年12月非暴力による民主化運動の指導として認められ、ノーベル平和賞を受賞している。ノーベル賞を受賞しても軍事政権は、これを評価せずに無視し続けており、自宅軟禁状態を継続している。

スー・チー女史は、民主化運動の象徴的存在となっているところから、現在の軍事政権に嫌われた。そして、一時的に解放され、活動のたびに自宅軟禁状態になることを繰り返している。2004年3月現在自宅軟禁状態から開放されたというニュースはないのでヤンゴンのセドナホテル近くの自宅にいるはずである。昨年2003年11月我々がヤンゴンを訪問した際も彼女の家に近寄ることも自由にならない状態であった。それでも軍事政権下の自宅軟禁程度で済まされているのは、彼女の父親アウン・サン将軍の娘ということが特別配慮されているという説もある。スー・チー女史が英国人と結婚したためにミャンマー人の一部から反発もあるとも言われており、真相はわからない。反スー・チー女史派がこれを利用した可能性もある。政治には各方面からの力関係が働き真相がなかなかわかり難い。今後の各種報道に注意していきたい。

back