原発被災地
双相地区の近世史をふまえて

 今なお、福島第一原発の事故収束の見通しは立たず、国の復興施策は停滞したまま。双葉町や大熊町等帰宅困難に指定されている地域は、除染は手つかず、荒廃が進んでいます。被災者の皆さんは故郷を追われ、日々の生活のよりどころだった近隣の人々とのつながりを失い、未来を奪われた無念さと悲しみと怒りはつのるばかりです。






 原発被災地となった「双葉・相馬地区」には、天明、天保の大飢饉に見舞われ、離散を余儀なくされたが、祖先は阿弥陀如来信仰一途に生き、働き、「二宮尊徳の御仕法」に精励し、荒廃した農村の再生に尽くし、豊かな故郷の土台を築きあげた歴史があります。

近世史@
天明の飢饉でとられた「相馬藩」の真宗門徒移民受入政策

近世史A
再び天保の飢饉に見舞われたが、
「二宮尊徳」の教えのもと蘇った「福島県双葉、相馬地区」

近世史B
国策「原発」の犠牲となって、
再び故郷を追われ、離散、流浪の生活となった故郷の人々




原発被災地
双相地区の近世史@

天明の飢饉でとられた
相馬藩の真宗門徒の移民受入政策

 土地の寺記によると、文化7年(1821年)、加賀の国の本願寺僧が松島見物の帰途、相馬城下に泊まった折、藩の有力者が天明の大飢饉で農地の荒廃が進んだ藩の窮を打開するために、移民勧誘を頼みこみました。
 本願寺僧も「相馬に居を移して協力してくれれば、檀家もふえ、寺の建立も容易にできるようになる」という誘いに感激し、翌文化八年、第1回の移民として79人を何組かに分けて目立たないようにつれて来たことが、双相地区への真宗門徒移民の始まりと言われています。

 彼等は北陸にあっても生活の苦しい人達だったと思われます。加賀、越中から相馬への道は、越後へ北陸道を北上し、会津、福島そして相馬へというルートが考えられます。
 「ハァ 相馬、相馬と木萱もなびく、なびく木萱に花が咲く、 花が咲く」という歌に誘われての長旅はどんなものであったのか。路銀はどうしたのか、雨や風にどう耐え凌いだのか、歩いて何日かかったのかと思いをはせると万感の思いがします。 




双相地区に伝わる民謡 相馬二編がえし

ハア イッサイコレワイ パラットセ ♪
二遍返しで済まないならば
お国自慢の流れ山
伊達と相馬の境の桜 花は相馬で 実は伊達に
相馬相馬と 木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く
駒に跨り 両手に手綱 野馬追い帰りの程のよさ
ハア イッサイコレワイ パラットセ ♪ 
ハア 大難沖まで パラットセ ♪


 双相地区に伝わる民謡「相馬二編返し」は、相馬を誉めたたえる宣伝歌として唄われたと伝えられています。土地の人はもともと宣伝下手。多分真宗の僧侶たちが移民を勧誘するためにつくった宣伝文句がもとになっているのだ思われます。
 
 それでも、「相馬へ行けば米の飯が食える。荒地も好きな所を好きなだけ開墾して自分のものにできる。相馬は冬でも菜の花が咲くところ」。浄土真宗門徒の移民にとって、相馬は魅力ある地と思えたのではないでしょうか。
 
 祖先は苦しい旅を重ね、知らぬ他国相馬にたどりつきました。でも、それからの苦労は大変だったと思われます。
 自分の国を逃げ出して来たので今さら帰る処もなく、踏まれてもたたかれても歯をくいしばって双葉・相馬の地で生きぬかなくてはなりません。それが自然と彼等自身の団結を固くし、阿弥陀如来信仰一途に生きて、働き続けました。

 彼らにとっては、お寺に参るのが何よりの楽しみでした。これらの地域では、移民の心の拠り所として浄土真宗寺院が多く建てられました。
 
 子供のころ、お彼岸に家族、親戚一同が集まった浪江町の常福寺も、双葉町長塚の正福寺もそうしたお寺です。お寺同志も兄弟とか親戚とか縁故関係にあるものが多く、お東だお西だと分れていても反目することなどはなく、この仲のよいことも双相浄土真宗の大きな特色といえます。


原発被災地
双相地区の近世史A